[第33回「君という光が」: 登場人物紹介] ※年齢は全て、ヒカルの2006年8月18日の埼玉二日目コンサートの時点を基準にしています。
ヒカル: 23歳、日本を代表するR&Bシンガーソングライター。全米にも進出中。宇多田ヒカルのイメージをそのまま重ねていただければ結構です。このストーリィには直接関係しませんが、主要人物に対する心理的影響は大きなものがあります。
西田智也: 24歳、フリーター、ネット投資家、早稲田大学文学部受験に2年連続失敗し、日大文学部中退の過去を持つ。バイト先の中島明菜と交際を始めたばかり。ヒカルのコンサートで渡瀬奈緒美と邂逅する。コンサート記事を書いたことにより、円城寺いずみからメールが送られて来た。 その後、渡瀬奈緒美と再会することで中島明菜との仲にヒビが入り別れを告げられることに……
渡瀬奈緒美: 23歳、多摩美術大学グラフィックデザイン科2年生、円城寺いずみと親友、藝大受験を5年連続で失敗し、4年間の浪人生活にピリオドを打って多摩美に入学した苦い過去を持つ。ヒカルのコンサートで西田智也と邂逅する。 円城寺いずみの画策で西田智也と再会し、遂には交際を始めたが……
中島明菜: 20歳、フリーター。バイト先で西田智也と出会い、ヒカルのコンサートで初デート。何かの拍子に自分のことを『ボク』と呼んで落ち込むことがあるが、過去に何かトラウマがありそうだ。 西田智也と恋仲になるが、あることが切っ掛けで別れを決意したが……
円城寺いずみ: 21歳、多摩美術大学グラフィックデザイン科2年生、渡瀬奈緒美と親友。入院中。西田智也と渡瀬奈緒美を交際させようと画策するが…
円城寺誠: 16歳、高校1年生、円城寺いずみの弟、ブラジリアン格闘技修行中。姉の友人渡瀬奈緒美に恋しているが……
西田智彦: 53歳、西田司法書士事務所所長、智也の父。子どもっぽく責任感が薄いので事務所の使用人からも嫌われている。 ある日愛人との旅行が妻にばれて…… 西田典子: 52歳、西田司法書士事務所経理担当、智也の母。 ある日夫の旅行に疑問を持ち、探偵事務所に浮気調査を依頼したが……
++++++++++これより本編+++++++++++
「奈緒美の家」
摩訶不思議な芳香を放つ未知なる果実をリアシートに乗せた僕は、愛車のヤマハを一路西へと小粋に飛ばしたい気分だったが、普段より空いているとは言え、信号と信号の間でピークの低い放物線速度グラフを描く四輪に前を塞がれてはそうも行かなかった。片側一車線の国道で微速度走行を強いられ続け愈々腐り掛けた時、リアシーターに右肩を叩かれ漸く十四号線を北側に脱出した。京成線の小さな踏み切りを超えて、幾つ目かの交差点を左に入るともうそこは目標地点近辺だ。 東側の菅野地区とこの辺りの真間地区には、未だイメージ的に上品な香りが漂っているが、菅野地区の一部は既に建売住宅団地が広がっているし、真間地区の入り組んだ一角は、車の擦れ違いすら許さない細道が蜘蛛の巣の様に広がっているのも事実だ。 時折美しい塀に囲われた、緑豊かな庭を持つ瀟洒な住宅などを見掛けると、江戸時代から豪商の別邸が多く建てられたのはやはりこの地域なのだろうという気がして来る。 奈緒美の家はエントランス周辺の背の高い植樹群と、淡く上品な小豆色の外壁が印象的な、三階建て低層マンションの最上階にある一室だった。 僕はたったそれだけで、奈緒美が裕福な家庭に何不自由無く育った子女だと錯覚していたが、数日後彼女から聞いた話によると実はそうでもなさそうだった。 奈緒美の祖母が長患いをした時に、祖父が代々受け継いで来た菅野の土地を売り払い、祖母の郷里に近い九十九里の海が見える家に、一家全員で移り住み暮らしていたことがあると言う。それから数年後に祖母が亡くなり、さらに二年も経たない内に祖父もその後を追うようにして他界すると、奈緒美の父には祖父名義の纏まった預金が遺産として残された。その金で元々家族が住み付いていたこの地区へ、奈緒美が高校生になった年に舞い戻ったと云う渡瀬家の歴史があるそうだ。 奈緒美の父は、千葉県の公務員で決して経済的余裕がある訳ではなく、寧ろ祖父母を療養する都合で九十九里近くへの転勤を願い出た結果、出世コースから外れてしまったらしい。 奈緒美の母は、祖父母の世話の為長らく外で働くことができなかったが、マンションを買った後に残った少々の蓄えも、三年前の姉の結婚と、奈緒美自身の四年にも渡る藝大受験、美大の高額な教育費などの出費が重なり、かなりの部分を費消してしまった今、平日の日中は保険会社のパートタイム勤務に出るようになった。それでも世間の一般的な見方に従えば、東京に近い高級住宅地に九十平米クラスのマンションを所有し、住宅ローン債務が一円も無いとすれば、日々の暮らしに余裕が無い渡瀬家でも金持ちと分類されるのかも知れない。 フローリングスタイルで、ウォークインクローゼットの付いた奈緒美の部屋は、西側に面した六畳程の洋室だった。部屋の殆どを占めているのは、ベッドと作業台と呼ぶ方が相応しい大きなワーキングデスクで、床にも壁にも画材の類や、作り掛けの粘土細工や、書き掛けの小さな絵が散乱していたが、個人用の小さな冷蔵庫らしき存在も含め、個別に観察できたものは何一つ無かった。と言うのも、奈緒美に続いて部屋に入るや否や、 「やっぱりダメ」 と五秒も経たない内に、僕は部屋の外へと押し返されてしまったからだ。 代わりに奈緒美に案内されたのは直ぐ隣の部屋だった。 僕は目を奪われた。クローゼット分だけ隣室より広そうなこの部屋の、三方の壁面全てと天井に至るまで、大小様々奇妙奇天烈な絵が架けられていたのだ。ここは小さなギャラリーだ。 正面には天井近くから床までの大きなサッシ窓があり、小さなバルコニーの出入り口になっていた。部屋の中央に背の低い小さなテーブルと、白色の大きなビーンズクッションが二つある他、片隅にコミックや小さなフィギアの詰まったカラーボックスが、綺麗な形に積み上げられている。さりげ無く美術関係の専門書を収めた箱も目に留まった。 「こんな部屋があるなんて良いね」 「姉さんの部屋だったけど、三年前に結婚して独立したから、ここが空いたの。ウチの親が作品を飾っておけって言うから、こんな風になった」 「これ全部奈緒美の絵かぁ」 「姉さんがいつ帰って来ても良い様に、お父さんはここを空っぽにしておきたいのかもね」 「ひでぇ」 奈緒美は部屋を一旦出て行ったが、暫くするとクッキーと紅茶のトレーを運んで戻って来た。 「ティーバッグでごめんね」 「十分す。画廊でお茶をいただいているみたいで贅沢な気分さ。それにしても」 僕はそこで言葉を切った。 「それにしても、私の部屋はここと比べて汚い」 奈緒美は笑いながら僕の反応を伺っている。 「それもあるけど」 「何」 「全部見せるって言った癖に」 「部屋が綺麗に片付いたら見せるからね」 「全裸まで見せた癖に」 「そうだね、見せちゃったよね」 奈緒美は目を線の様に細め笑い出した。僕は澄まし顔で、奈緒美の両胸と下腹部辺りを順番に指差した。奈緒美の笑いは益々激しくなり、左手で胸を隠しながら右手を左右に振って下を向いた。耐え切れず僕も笑い出した。二人が笑いを噛み殺すまでには結構時間が掛かった。 「そっちの方がよっぽど恥ずかしいだろ」 「恥ずかしくないと思ってたんだけど、途中から急に恥ずかしくなっちゃった」 「本当?」 そう訊きながら、僕は奈緒美の乳首が突然隆起した様子を思い出した。 「だって智也が舐める様に見詰めるんだもの。私だけが裸見せたまんまじゃ、何か不公平だよね」 「俺、見せてくれって頼んだ訳じゃないぜ。見せられたんだから。そこんとこ忘れないように」 「でも、やっぱ不公平だよ。私だけが恥ずかしいままだし」 「だったらどうしたら良いの」 僕は意味深に笑った。奈緒美にも僕の下心が通じたようだ。 「私たち、まだキスもしてないんだよ」 「キスどころか、今日付き合い始めたばかりだ」 自分で口にして改めて驚いた。奈緒美のペースにすっかり嵌り込んでいた僕は、既に何週間も付き合っている様な気分になっていたのだ。奈緒美も同じ様に感じていたのか、僕の言葉に反論した。 「出会ったのが八月十八日だから、もう三週間位は経ってるよ」 「どうしてそこから数えるんだ」 「だって邂逅したんでしょ、私たち。だったら、そこから数える方が大事じゃない」 「じゃあ八月十八日は邂逅記念日だ」 「それ良いかも」 笑いながら奈緒美は指を折って数え始めた。 「今日は九月十日だから、邂逅記念日から二十三日経ってる」 「あ、すっかり忘れてた」 「何」 「明日が俺の二十五回目の誕生日」 「智也、二つも年上のお兄さんになっちゃうの。四捨五入すると三十」 「そんな所で四捨五入するな」 「九・一一ってニューヨーク・テロの日だね」 「そうなんだ。二十一世紀最初の年、俺が二十歳になった日さ。あの同時多発テロ以来あまり良い日じゃなくなって、俺には大迷惑な話さ」 その頃奈緒美は十八で、藝大合格を目指して一年目の浪人生活を送っていた。浪人時代のことは余り触れたくない様子だったので、僕も敢えて訊かなかった。だから僕は自分のことを話した。 僕はその年の春、二度目の早稲田文学部の入試に失敗した。前年に日大の文学部に入学していたが、仮面浪人を決め込んで受験勉強ばかりしていたから、一年生の単位を全て落とし、二度目の一年生生活を送っていた。あの世界貿易センタービルの崩壊が無くても暗い時代だった。父とも段々と巧く行かなくなり始めた時期だ。留年した大学生活は全然おもしろくなかった。小さな文学賞に拙い短編小説を投稿していた頃でもあった。小さな挫折の繰り返しを思い出す。それはボディブローの様にじわじわと効いた。心が荒んで行くと碌な考えが浮かばない。この大学に居てもしょうがないと思った。本当は僕にやる気が無かっただけなのに、大学に遊びに来ている様な同級生達と、適当な講義でお茶を濁す教師達に飽き飽きしていた。その次の年、二年生に進級する前に親に内緒で退学届けを出したのだ。父との不仲は決定的になりつつあったが、母の取り成しもあって父の事務所に勤めるようになった。僕にとっては嘘で固めた転落人生の始まりだ。 留年も辛いんだねと奈緒美は口にした。彼女の親友、円城寺いずみも多摩美で一年生を留年している。病気による出席日数不足が祟ったそうだ。奈緒美はいずみのことも多くは語らなかったが、正規のコースを外れた寂しい者同士の気持ちが通じて、二人は仲良くなったのかも知れない。 話を変えるように奈緒美は言った。 「明日どうしようか。私明日から大学始まるけど」 「俺は夜バイトあるから会えそうにないね」 「じゃあ、バースデイイブのプレゼント、今上げちゃう」 奈緒美はクッションから立ち上がると、手を取って僕を目の前に立たせた。そして僕の前で軽く背伸びした奈緒美は、そのまま目を瞑り唇を突き出した。目の前に奈緒美の柔らかそうな唇がある。瞬間的に心臓は高鳴ったが、自分でも驚くほど身体は自然に反応した。気が付くと僕は、両手で奈緒美の上腕を外側から軽く抑えながら、そっと唇を重ねていた。数秒が数分にも感じた。あの日、二人の手が触れ合ってから、今はこうして熱いキスを交している。 唇を離した二人はその場で見詰め合った。 「最高のプレゼントありがとう」 「うん」 それしか言わなかったが、その目を見れば分る。奈緒美も僕以上にうっとりとしていた。この時だけは、あの日と二人の立場が逆転していた。 放心の時間が過ぎ去り、二人はクッションに座り直した。目が合うと奈緒美は試すような目付きになった。 「さっきの不公平の話だけど」 「自分だけ恥ずかしくて不公平って話?」 「智也もヌードモデルになってくれる。そうすれば私も恥ずかしくない」 「わぉ、きついジョークだ」 「本気だよ。大学で皆の為にヌードモデルしてもらうか、個人的にこの部屋でヌードモデルしてもらうか、どっちが良い」 僕は奈緒美に試されていた。奈緒美の真っ直ぐな視線を受け止めながら、今聞いた言葉が頭の中で具体的なイメージになり始める。黒いソファに全裸で横たわる自分。大勢の女生徒達から好奇の視線を浴びて。意地悪そうな目付き……男子生徒が一人だけ混じっている。良く見るとその男は円城寺誠の顔をしていた。彼の心の声が聞こえて来る。 『お前、良くそんな恥ずかしいことできるな。平気そうな顔して、ホントは怖いんだろ。良く見ろよ、金玉縮み上がってるぞ』 僕は思わず自分の股間を意識した。 「本当に本気なの」 「うん」 「勘弁してよ。人前でヌードモデルなんて俺にできる訳無い」 「じゃあ、個人モデルね」 これで話はすっかり決まったような雰囲気だ。ビーンズクッションに埋もれたまま、僕は自分の衣服の下を想像した。イーゼルの向こう側の奈緒美にじっくりと観察されながら、この部屋の中で僕は意外にも堂々としていた。股間が何故か硬くなり始める。慌てて想像の火を消し止めた。 「一つ条件がある」 「何」 「奈緒美がヌードモデルのバイトをやめてくれる事」 「やめて欲しいの」 「君の裸を他人に見られるのは我慢できない」 そこまで言ってから僕は、奈緒美がヌードモデルをやり始めた動機をまだ知らなかった事に気がついた。時間を掛けて奈緒美を理解したかった筈なのに。俯き掛けた目を上げると、そこに奈緒美の静かな目があった。 「でも君に特別な理由があるなら」 「自分の勇気を試したかっただけ。もう試したから私やめる」 本当にそれだけだろうか。問い詰めたい気持ちを抑えるのに僕は必死だった。しかし今ここで真の回答を求めるよりも、時間を掛けて二人の心が触れ合えば、自然に奈緒美を理解できるだろうと思い直した。 「本当に」 「その方が良いんでしょ」 「うん」 「今日、智也に裸を見られて、私初めて恥ずかしくなった。勇気なんて元々私には無かったみたい」 「そんなの勇気とは関係ないと思うよ」 「そうかも。でもどっちにしろ、やめようと思ってた」 「なんだ、それじゃ俺の条件始めからクリアしてるじゃん」 「そうかもね。でもヌードモデルはやってくれるよね」 「仕方が無い。一回だけで良いならね」 「うん、一回だけで十分だよ」 「いつにする」 「水曜日は授業取ってないんだ」
僕は今週水曜日の午前十一時から午後二時まで、三時間のヌードモデルを約束させられた。なるようになるさ。暫くの間、奈緒美という奔流に素直に流されてみよう。 その部屋を出て玄関に出た時、奈緒美の母親が廊下の反対側のドアから出て来た。帰り間際で簡単な挨拶しかできなかったが、人生に疲れ切った様な母親の顔に、ふっと安堵の色が浮かんだ様に見えた。★★★
++++++++以下次章「誠の憂鬱」へと続く+++++++++
テーマ:自作恋愛連載小説 - ジャンル:小説・文学
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